私とせつなさん 嘘告白小説

「季節(とき)は今や春にして・・」


私が彼女を知ったのはこのような経緯だった。


もう随分前のことになる。その年、私は東京郊外の、桜並木で有名な
大学の研究室に残り、退官間近の老教授のもとでエドワード朝演劇の
翻訳、などという作業に明け暮れる毎日だった。

毎日狭い研究室で、積み上げた英語辞典30巻余りに埋もれるようにしながらの、
いつ果てるとも知れない言葉の海、ページの山につい全てが疎ましくなり、
その日、仕事を早めに切り上げて文学部棟を後にしたのだった。


時間はすでに5時近くだったろうか。普段なら着飾った男女でにぎやかにごった
返しているバス停までの道も既に人影がすくない。道の両脇の数百本の桜から
音も無くふりそそぐ桜の花びらがゆっくりと並木道に敷きつめられていくさまを
ぼんやりと見やりながら、私はふと思い立って、桜並木の端まで歩いてみる
ことにしたのだった。

何も急ぐ用は無いので、ぶらぶらと、時間をわざとかけて歩く。よく知っている筈の
道も、匂いたつ花の香りに満たされ、まるで空が薄紅に染め上げられたかと
思わず錯覚するほど咲き誇った枝の下を歩むとまさに別世界だった。

ふと、一瞬、風が吹きぬけ、頭上の厚い紅(くれない)の雲が何度か揺さぶられたと
見るや、あたりはたちまち降り注ぐ幾万、幾十万の花びらの川のようになった。
風が無数の花弁を吹き上げ、舞わせ、私の周りを行きつ戻りつ、まつろわせる。


夢見心地とはこういうものをいうのだろう。私は頬に触れては離れていくこの
柔らかな流れに身を浸し、思わず自然に一人微笑んでいた。

私はいつのまにか、つい先ほどまで自分が訳していたThe CHANGELINGの
一節を口ずさんでいた。

「・・季節(とき)は今や春にして、万花我がために装えリ・・」

・・これほどこの言葉にあった眺めが世にあろうとは思えなかった。


ふと、前を見ると、前方の桜のさざなみが突然割れて、一人の女性がこちらに
歩んでくる。はじめに私の目を奪ったのは風になびく彼女の輝く、黒く長い髪で
あったが、数歩の距離に近づいたとき何気なく目を向けた彼女のかんばせの美しさに
私は文字通り、打ちすえられ、言葉を失ったのだった。そのとき、さぞかし私は
間抜けな顔をしていただろうと思う。


おそらくインド系かアフリカ系であろうなめらかな褐色の肌、かすかに眉の間に
憂いを含め、深みをたたえたその切れ長の目。小ぶりな口許は、まるで何かを
言いかけて、諦めたかのように、あるいは永遠にためらっているかのように、
軽く閉じられていた。

彼女は視線を足元に落として足早に歩いていたのでおそらく横に佇む私の姿を
見なかっただろう。私にとっては一瞬に過ぎたようでもあり、また随分と
長い間見つめていたようでもある時間が過ぎ、彼女は私の脇を通りすぎていった。


私がわれに返ったのはどれぐらい経ってからだったろうか。もう彼女の姿は
どこにも見えず、私は熱帯の病にあたったようであった。ふらふらとした
足取りでアパートに向かったが、どこをどうやって帰ったか、全く思い出せない。

信じられないことかもしれないが、私はそれから現実に病気になってしまった。
熱が出て、食べ物も喉を通らず、眩暈がしてまともに立って歩くことが出来ない。
職場にやっと復帰したのは、三週間ほどもしてからのことだった。


私はそれからも、その日かいまみた彼女の姿を心から追い出すことが出来
なかったが、それでも熱が下がるころには一応心が落ち着いて来、それまでのように
寝ては夢、覚めては現(うつつ)に彼女のことのみが頭の中をぐるぐる回っている
状態からはなんとか抜け出ることが出来た。夏には、外国の大学院での研究も
決まり、公私ともに忙しくなったせいもあるだろう。

しかしそれとともにある思いが心を満たすようになっていった。彼女がどこの
誰だったのか知りたい。いや、それよりも、彼女の名を、知りたい。

そのこと自体に何の意味があるわけではない。人と人の間には縁というものがあり、
私と彼女の間には結局何ほどの縁も有りえないことはどんなに頭に血が上った男でも
判るようなことだ。だが、だからこそ、せめて彼女の名前だけでも私は知りたかったのだ。



・・・それは渡航を数日後に控えた一月のある日のことだった。その日は朝から
東京には珍しく雪が降りしきり、あたりは一面の純白の世界となった。まだ冬休みが
開けていないほぼ無人のキャンパスの中にはそれを踏んで汚すものもなく、書物と
ともに私が一年を過ごした文学棟の研究室の窓からぼんやりと校舎たちを
見まわしていると、何か目くるめく夢幻境に引き釣り込まれるようだった。

私は2,30分も見るともなく外を眺めていたと思う。突然、文学棟の前の道を
理学棟の方へと歩いていく黒い影が目に入った。

そのときの心地をどう表現すればいいだろうか。心臓が早鐘のように打ち、手足が
ばらばらになるような・・ 「彼女だ!」 私はコートも羽織らず研究室から飛び出していた。


後ろから駆けてくる足音に彼女は少し驚いて振り向いた。髪を振り乱し、この寒空に
シャツの襟もはだけて追いすがる、見知らぬ男を見ては当然だろう。彼女の手前
数メートルの場所に立ち止まり、肩で息をしている私を彼女は怪訝そうに見つめている。

私はカラカラの喉からようやく声を絞り出した。

「・・・春に・・・桜が咲いていたときに・・あなたを、ここで見ました・・・」

彼女は無言だった。

「・・・それからずっと、毎日この道を見ていました。・・もう一度会えるかと思って。
 もう一度だけ、あなたを見たかったから。」

私はそこで絶句してしまった。陳腐な表現を使えば、感極まった、というやつだろう。

「・・・・・・・」 

彼女の表情から緊張が次第に消えてゆき、わずかに首をかしげて、私の次の言葉を
うながした。

「・・・私は、あと数日で、この研究室を離れます。外国に出るんです。出来ることなら・・
 いえ、お願いですから・・・あなたのお名前だけでも、知りたいと思ってました・・」

私にとっては不安な一瞬が過ぎた。まぁ、どう考えてみても、あまりまともな頼みごととは
言えない。しかもこのご時世だ。言下に断られても仕方がないな、と、どこかで思った。


彼女はしばらく私の事をじっと見ていた。何かそれは、何も隠し事が出来ないような、
心の底まで見通されるような、不思議な、おそろしいような、視線だった。


彼女はやがてにっこり笑うと、

「せつなです」

と、ひとこと言った。

私の心を歓びが満たした。雪の、ひとひらひとひらが、一瞬にあの春の日の花びらたち
へと姿を変え、私の周りで舞い出し、その音楽に合わせて世界全体が軽やかに歌い、
揺れ始めたようだった。 


「せつな」 ・・・なぜか、すでに以前から自分はその名を
知っていたような気もした。 「せつな・・・」 私はもう一度つぶやいた。


せつなは優しい目を私に向け、かすかに微笑んだが、すぐに口許に、彼女の
さびしそうな微笑がもどっていった。


「また、会いましょう」

低く囁くような彼女の声が聞こえると、もう彼女の姿は降りしきる雪の中に消え去るところ
だった。


もう一度目をしばたかせると、せつなはもうどこにも見えなかった。


その数日後、私は異国に出、やがて職を得、それから一度も日本に帰らないまま長い年月が
過ぎさった。時々、あの雪の中の、二度目の邂逅が本当に起こったのかどうか疑わしく思えることもある。
しかし、それならばなぜ、私の唇が今、せつな、という名をたどることができるだろか。
彼女は確かに二度私の前に現れたのだ。そして、「また、会いましょう」、という彼女
自身の言葉を信じるならば、おそらく、もう一度。


それがいつのことなのか、いつ、私がもう一度せつなに会えるのか・・。なぜか、私はそれをも
今は、知っているような気がするのだ。



終わり



後記: あまし明るくない話ですね・・でもせつなさんだからそれでいいんじゃないかなー、なんて・・